犬矢来、水撒き、人形
あれは6年前の夏だった。当時大学生だったあたしは夏休みを使って、京都を旅行していた。京都と言えば祇園、という妙なイメージがあたしの中にあったので、そこをブラブラとうろついていた。
「わあ~……本当にこんなのあるんだ。時代劇みたい」
古風な通りを歩いていると、竹で作られた柵のようなものが目に入る。
「何て言うんだろ? うーん……」
あたしがその柵の前に突っ立って眺めていると、横から声をかけられる。
「それは、犬矢来(いぬやらい)言いますのんや」
振り向くとそこには割烹着を着た、着物姿の女性がいた。声の感じでは40くらいだと思ったが、姿はもっと若く見える。
「雨が跳ねたりとかで壁が汚れるのを防いでますのんや。見栄えの悪いお店さんなんか、お客さん、よう入って来いひんからね」
それでようやく気付いたのだが、どうやらそこは何かのお店だったらしい。すぐ前に立っていたあたしは慌てて飛びのき、おばさんに頭を下げる。
「あっ、す、すいませーん、気がつかなくって」
「ええよ、ええよ。どうせ道楽で出してるさかい」
おばさんはコロコロと笑う。
「良かったら、見て行ってください。ええもんありますえ」
中に入ると、そこは雑貨屋のようだった。棚にいろんな小物が置いてある。壁や天井からも色々と吊り下げられ、ゴチャゴチャした感じだ。でも不思議と、せわしない印象は受けない。むしろ、きっちりまとまっているような……このお店全体が、ひとつの完成した世界のように感じられた。
「ここにあるのんはみんな、うちの手作りなんですわ」
「え……これ、全部ですか!?」
「はい、うち器用やさかい、何でも作れますのんや」
おばさんはまたコロコロと笑い出す。
「へぇ~……あ、この狐ちゃんかわいー」
あたしは棚の上に置いてある、陶製の白い狐に目をやる。
良く見ると、このお店には狐をモチーフにした小物が多い。その中でも、その狐人形はつるんとした丸っこい顔と体に、陶製とは思えないふさふさ感を持つ耳と尻尾が付いていて、ひときわ愛らしく見える。あたしはその人形の前で足を止め、熱心に見入っていた。その様子を横で見ていたおばさんが嬉しそうに声を上げた。
「ええでっしゃろ、それ。うちも気に入っとりますのんや。今まで色んなお人形さん作ってきたんですけど、その子は一番ようできとりましてなあ……そやから、お売りは出来ませんのやけどね」
「あらー……残念ですね」
あたしもその狐は一目で気に入ってしまった。他にいいものは無いかとあちこち見回すが、残念ながらこの狐より目を引く物が見当たらない。
どうしてもその人形が欲しくなったあたしは、少しわがままを言いたくなった。
「あの……どうしても、売っていただけませんか?」
「せやから、うちも気に入っとりまして……」
「そうですか……」
「それにねえ、この子もここ離れたくない言うとりましてな……」
「この、子……が? 」
おばさんが何を言っているのか良く分からず、あたしはおばさんと狐を交互に見ていた。
「ええ、言葉はしゃべらへんのやけど、目で語りかけてきますのんや」
「……目、で、ですか?」
あたしは人形を見つめてみる。しかし、どう見てもその目は釉薬を付けられた、ただの点にしか見えない。
「うーん……どう見ても、ただの人形にしか……」
するとおばさんが変な事を言い出した。
「うち、狐なんですわ。せやから少し、面白い力ありましてな……」
「は……はあ?」
突拍子も無いおばさんの言葉に、あたしはおばさんの正気を疑った。いぶかしげに見つめるあたしを残し、おばさんは桶と柄杓を持ってお店の外に出る。
「ま、そこで見ていておくれやす」
そう言うとおばさんはぱっ、ぱっと水を撒き始めた。
水音がしない。撒かれた水が、一滴も地面に落ちていかない。空中で無数の水玉になって止まっている。
「え……!?」
あたしは思わす声をあげる。瞬く間に、お店はキラキラと光を反射する水玉で覆われた。
「これは……え……どういう……!?」
状況がまったくつかめず、まともな言葉が口から出てこない。
「ま、こんな感じなんですわ」
おばさんはコロコロ笑いながらお店の中に戻る。戻った途端、外に浮いていた水玉がバシャバシャと地面に落ちていった。
「え、こ、これ……えっ、ええ!?」
戻ってきたおばさんを見て驚いた。先ほどまで普通の人間だったはずだが、耳がケモノっぽくふさふさとした耳に変わっている。良く見れば、同じようにふさふさした尻尾も生えている。まるでさっきの人形のような……。
「き、き、き、きつっ、狐!?」
「はい、うち狐ですねん」
おばさんは事も無げに返す。あたしはその場にへたり込んでしまった。
「あら、大丈夫ですか? ちょっとー……びっくりさせ過ぎてしまいましたな……」
おばさんが申し訳無さそうに椅子とお茶を持ってきてくれた。あたしは椅子に座り、先程の不思議な「水撒き」を何度も思い出し、湯飲みを手にしたまま呆然としている。
「ホンマにすんませんでした……お客さんそないに驚くとは……」
「あ、いえ……もう、大丈夫です。……あの、良かったら……」
「はい? なんでっしゃろ?」
「……耳、触らせていただいてもいいですか?」
「ああ……ええよ、ええよ。ほれ」
おばさんはあたしが座ったまま触れるように、あたしの前に屈んでくれた。触ってみると、確かに動物っぽい……本物の狐耳だった。
「うわあ……ふさふさ。……可愛いかも」
「もう、お客さん何言うとりますのんっ」
おばさんは少し恥ずかしそうに笑う。
「本当に、狐……さん、なんですね」
「ええ、神通力言いますか、そういうのがありますのんや。それでか知らんのんやけど、作る人形にも、何ちゅうか……魂こもってしまいますねん」
「あ、それで……『語りかけて』って」
おばさんは立ち上がり、さっきの人形を持ってきてくれた。先程は何も感じられなかったが、改めてこの人形をじっと見ていると不思議な躍動感を感じる。何も言わず、ピクリとも動かないが、その目は本物の……生き物の目のように、見えた。
その様子を見ていたおばさんが「あらぁ……」と声を上げた。
「この子、お客さんの事えらい気に入らはったようですわ。……ええでしょ、お譲りしますわ。大事にしてやっておくれやす」
「あ……ありがとうございます!」
あたしは椅子から立ち上がり、おばさんにお礼を言う。
「お代は……そうですなぁ。ちょっと高う付きますさかい、そのー……時計、と交換で、よろしおすか? ……うちも、その時計ええなあと思うてしまいまして」
おばさんは恥ずかしそうにまた笑った。あたしもこの時計は気に入っていたのだが、この狐人形にすっかり心を奪われていて、すんなりと交換を承諾してしまった。
「……はい、分かりました。じゃあ……これで」
「おおきに……また来ておくれやす」
おばさんは交換した時計を腕にはめる。着物姿と妙に似合っていて、あたしは少し悔しくなった。おばさんは時計が気に入ったらしく、時計をはめた手を振って、またコロコロと笑った。
その時の狐の人形は今でもあたしの部屋に飾ってある。でもなぜか、あの時感じた生き物っぽさはあれ以来感じられなかった。また、それから2度、あたしは京都を訪れたが、あのおばさんのお店はあれ以来、どうしても見つける事が出来なかった。
今でも、あのお店とおばさん、そして幻想的な水撒きの様子は鮮明に覚えている。出来るならもう一度あのお店に寄って、あの綺麗な水撒きを見てみたい。それから、おばさんがまだあたしの時計をしてくれているのか、も。
犬矢来、水撒き、人形 終