3.
そしてさらに時は過ぎ、十余時間が経過した。
「ひゅー、はぁー」
もはや、呼吸もままならない。しゃべる気力も失せた。まずいことには、具足や篭手、脇差も使い物にならなくなり、残っているのは刀一振りと胸当て、そして道着だけである。
(まだか? まだなのか? まだ、時間は……!?)
途中、この異変に気付いて誰か来るのではと、淡い期待も抱いた。だが、焔流の者さえ襲ってくるのだ。であるならば、これは試験の一環であり、助けなど、来るはずも無い。
そして、ここから推理して、ある結論に行き着いていた。
(伏鬼心克堂、すなわち心に伏す鬼を克する堂。ここは心の中のものが、現実に現れるのだ。
恐らく、ウィルバーなんかや、橘殿など、様々な強敵が出てきたのは、そのせいだろう。敵を己自身が想定し、作っているのだ。心の中にいる兵たちを、私自身がこの堂に、呼び出しているのだ。
……にしても、多い! 私はこれほど多くの者たちと、戦ってきたのか? 考えもしなかったが、私は、これだけ多く、人を、倒してきたのか。
しかし、そう考えるならば、光明は、ある。疲れて、頭は、うまく回らない、が……。もう、考え付く限りの、すべての兵は、出尽くしたはずだ。もう、現れるわけが無い。他に、私が戦い、その強さを認めた者など、一人も残っていない……はず、だ)
だが晴奈は、一つの可能性に思い当たってしまう。
(強い、者? いないか、本当に?
その強い者たち、彼らを、すべて、倒した人間が、いる、……だろう?)
考えた瞬間、しまったと舌打ちする。考えれば、それは現実になるのだ。
(私としたことが! よりによって、こいつの、相手を……!)
目の前にすうっと、人の影が現れる。そしてその顔が、あらわになる。
(こいつの――『黄晴奈』の、相手をしなければならぬとは!)
目の前に現れたのは、自分自身。
晴奈だった。
自分自身と戦う。
最初の数分は戸惑い、次に舌を巻く。そして延々と、苦しまなければならない。
勝手知ったる自分のことながら、こうして「他人」として向き合うと、大まかな動きは検討が付いても、とっさの反応――意識の外で行われる動作など、細かなところまでは予測しきれない。完全に動きを読みきったつもりで、とどめを刺そうとしても、半ば本能的な動きで防がれる。そしてほぼ無意識に繰り出される斬り返しで、晴奈は退かざるを得ない。この点にまず、戸惑った。
ようやく相手を「自分とは別のものだ」と考え、対応するようにしても、今度はその機敏な動きに翻弄される。自分でさえ気が付いていなかった、変幻自在の立ち回りに、晴奈の頭は混乱する。どう攻めれば良いのかと、舌を巻いた。
自分が考えられる限界の動きを、相手も、その限界ギリギリでこなす。「自分ならばこう対処する」と言う戦術、戦法も、相手がそっくりそのまま使ってくるため意味が無い。力技で押そうとしても、同等の力で押し返してくる。己の持てるすべての力を使い切り、捨て身になったとしても、相手も同じ力量で立ち向って来るであろうし、その結果、相討ちになるのは明白。
打つ手が見出せず、延々と、困惑と焦燥、軽い絶望感に襲われ、晴奈は苦しめられた。
そしてもう一つ。晴奈は少なからず、怯えていた。
自分自身と戦ってからずっと、その「自分」からひどく重苦しく、冷たい悪感情をぶつけられているのだ。
それは、この19年で最も鋭く、最も強い殺意だった。
(私が、私を殺そうとしている)
何度、心が折れそうになったか分からない。芯の強い晴奈でさえ、この殺意に怯えたのだ。
(こんなに、私は殺気立っていたのか。これほど敵に、殺意を向けていたのか。そして実際、殺した者もあった。
戦いの中でも、仇を討ちに行った時も、こんなに強い殺意を受けたことは無かった。……私と戦った者は皆、こんな気持ちだったのだろうか)
相手を倒せない焦りと、絶え間なく浴びせられる殺意で、晴奈の手足が重たくなってくる。
(今まで思っても見なかったが――私は『戦い』の片側しか見ていなかったのだな。もう片側、倒される者のことなど、まったく思いもよらなかった。
これほど人を絶望させて――私は敵を、殺すのか)
晴奈の心の中に、じわりと罪悪感が染み出した。
(どうすればいいのだ……?)
自分との戦いが始まって、すでに2時間。両者とも疲労が蓄積しているのが、己の肉体の重さと、相手の顔色で分かる。
(ここまで、私が強いとは。どうすれば、倒せる? どこに、隙がある? 何が、弱点だ?
……ダメだ、策が浮かばない。ともかく、倒さなければ!)
そう考えたところで、不意に、頭の中で何かが思い返される。
(……『倒す』? 倒さなければ、ならない? 何故だ?
よく考えれば、この試験を修了するには、24時間眠らずにいれば、いいのだ。『敵を倒せ』など、誰も言っていないじゃないか。
であるならば、襲ってきても、ただ、防ぐ。無闇に攻撃は、しない。己の体力回復に、専念――こちらからは、何もする必要は無いのだ)
そう考えた晴奈は、刀を正眼に構えて、相手との距離を取った。それでも相手は襲い掛かってくるが、その都度刀を弾き、距離を取る。こちらはただ防御し、攻撃は一切、行わない。
やがてその状態で、5分も立った頃、相手も正眼に構え、そのまま静止した。
(こちらが戦えば、相手も戦う。戦わなければ、相手も戦おうとはしない。相手が戦おうとしても、こちらが応じなければ、戦いにはならぬ。
戦えば戦うだけ、私は疲労し、時間を費やし、いたずらに人を傷つけ、苦しめる。それで得られるものがあるならまだしも、この場のように、戦うことに意味が無いのに戦うなど、何の得にもならぬ。ならば、戦わなければよいのだ。
無闇な戦いは、疲れ、失うだけ――そうか。それこそが、この試験の本意なのか)
そのまま微動だにせず、晴奈と晴奈は向き合った。そして長い、長い時が、立ち尽くす二人の間に、茫漠と流れ――。
24時間が、経った。