妖狐、対峙、退治
電話してから30分ほどで、その人はタクシーに乗って――羽鳥さんのタクシーだろう。暗かったので車内は良く見えなかったが、デカい笑い声で分かった――やってきた。
「よお、環さん」
大分歳を取っていたが、しゃんと背筋の立った、元気そうなおじいさんだった。
「こんばんは、淀橋さん。夜分遅く、ご足労を……」「ええ、ええ。そんなん、かまへん。そんで、この子が、狐のアレですか?」
おじいさん――淀橋さんはあたしの方に向き直り、ニッコリと微笑んだ。良く見ると、深草さんは何だか、緊張しているような顔をしている。
「はい。それで、こっちがその、狐護扇です」
深草さんはあたしが持って来た、扇子の入ったバッグを淀橋さんに手渡した。
「ふーん」
淀橋さんはバッグを持ったまま、じっと見つめている。と、ほんの少し、目が細まった。
「これはまた、えらいもん持ってきはりましたなぁ」
「え? あの、それってやっぱり、危ないってことですか?」
あたしが尋ねると、淀橋さんはすぐ、微笑み直した。
「あ、いや。まあ、確かにこのまんま持っとったら、えらいことになってたやろうね。
ま、でも、まあ……、何とか、してみましょか」
そう言うと、淀橋さんは深草さんと円ちゃんに、ぱぱっと指示を送った。
「環さん、結界お願いします。あ、円さんは戸締り、よろしゅう」
「はい」「はーい」
二人はさっと動き、入口を閉めたり、何やら唱えたりしている。いつの間にかまた、二人に狐耳と尻尾が生えていた。
そして、円ちゃんが戸締りを終え、深草さんが「よし」とうなずき、手を叩いたところで、お店の空気が変わった。
何と言うか、空気の流れが止まったような。密閉されたような、雰囲気が広がっていく。
「うん、準備でけたな。ほな、そろそろ開けてみましょ」
淀橋さんはバッグを床に置き、すっと、ジッパーを開いた。
その瞬間、バッグからブワッと、金色の煙が噴き出し、あの妖狐が飛び出した。
「娘エエェェェェーッ!」
妖狐はあたしに向かって、矢のように飛んできた。思わず避けてしまい、妖狐はあたしの後ろにあった棚にぶつかる。ガシャガシャと、棚の物が落ちていった。
「あー! 何しはんの……」「やかましいわ、童!」「ひゃっ……」
円ちゃんが文句を言おうとしたが、妖狐の剣幕に、狐耳をぺちゃりと伏せて怯え、何も言えなくなる。
「それから、そこの女! よくも今まで、閉じ込めてくれたな! この店に着くなり、妙な術をかけおって! 貴様も……」「大概にしなさい!」
いきり立つ妖狐に、深草さんはぴしゃりと言い放った。
「うちの店で暴れんとってください! 封じたんも、こんな粗相しはる思たからです!」「それは、貴様が……」「暴れるんやったらもう一回、封じますよ!?」
そう言って深草さんは、袖の下から扇子を取り出した。どうやら、あの狐護扇のようだ。
「フン、そんなもの痛くもかゆくも無いわ!」
妖狐は、深草さんに向かって飛んでいった。
妖狐が飛んできた瞬間、深草さんも扇子を投げつけた。すると、扇子はばっと開いて、クルクル回転しながら妖狐の額に当たった。その途端、妖狐は情けない声を出して、床にぼてっと落っこちた。
「ひゃああん!? ……う、う? なぜじゃ、このわしに、痛手を負わすなど」
「うちもそれなりに、神通力持ってますさかい。そら、敵いはしませんやろけど、横におる神主さんと一緒やったら、封じ込めるくらいは、できますやろね」
「う、ぬぅ」
すると妖狐は大人しくなり、その場にうずくまった。
と、その姿がぐにゃりと、歪む。そしてゆるりと伸び、目つきの鋭い――まさに、狐目――ゴテゴテした着物姿の男に変わった。
「この千穂の守に傷を付けるとは、何と不届きな狐か」
「不届きはそちらやと思いますけどな――うちの店、汚さんといてください」
深草さんは妖狐――千穂の後ろを指し示す。棚はグチャグチャになり、置いてあった品物は床にすべて落ちて、粉々になってしまっている。
「フン、こんな安物がどうした!?」
千穂は謝るどころか、ますます偉そうに振舞っている。それを静かに見ていた淀橋さんが、ぽつりと漏らした。
「ふむ。これは、増長しとりますなぁ」
千穂が細い目をさらに細めて、淀橋さんを睨む。
「何じゃと? 今、何と言うた?」
「せやから、いい気になっとる、言いましたんや。
アンタ、やることが神様にしては、みみっちいわ。偉そうなこと言うて、結局やっとること、八つ当たりや無いですか」
淀橋さんの言葉に、あたしは驚き、ぞっとした。そんなこと、言ったら――。
「爺、このわしに、説教か」
ああ、やっぱり怒ってる。あたしは怖くなって、近くにいた円ちゃんの手を、思わず握る。円ちゃんも握り返している――円ちゃんも怖がっているのだろう、手が震えていた。
だが、淀橋さんも、深草さんも、千穂に対して、怯える様子を見せず、堂々と構えている。それが気に障ったのだろう、千穂も袖の下から何かを取り出し、キレ気味に叫んだ。
「話は無用じゃ、消えよ!」
手にしていたのは――何て言うのか、良く分からない。何か、歴史の教科書に出てきそうな――木の板の、束だった。千穂がそれをかざすと、束に青い火が灯って、滅茶苦茶まぶしく光りだした。
あたしも、円ちゃんも、固く手を握り、これから起きるであろう、死ぬほど、マジで死ぬほどの、怖いことに備えて、しゃがみこんで目をつぶった。
……何も、起きない。
「せやから、神様らしくないて、言いましたんや」
淀橋さんの声が聞こえてきた。
「おやしろ離れて、さんざ力使て――まだやんちゃできる、思てたんですか」
深草さんの、呆れたような声も聞こえてきた。
「くぅ、ん……」
……何の声?
目を開けると、まだ目をつぶったままの円ちゃんがいた。耳がかわいそうなくらい、垂れている。思わず、引っ張ってみた。
「ひやぁーん! ……あ、あれ?」
困り果てた小動物のような声を出して、円ちゃんがそっと、目を開けた。
「……葛葉ちゃん、何しはんのんよぉ」
円ちゃんは涙目になっていた。……ゴメン。
そこでようやく、千穂のことを思い出した。いかにも殺されそうな感じだったのに、一体どうなったんだろ?
「これで、ええですかね?」「おう、上等上等」
深草さんと淀橋さんがしゃがみこんで、何かを籠に入れている。あたしと円ちゃんは、その様子を伺ってみる。
おー、狐なんて、初めて見た。いや、千穂みたいなのは見たんだけど、あれ、尻尾3本あったし、何かギラギラ光ってたし。マジで本物の、普通の狐って言うのは、初めて。……え?
「えっと、あの、千穂……、様は?」
「これや。この、あほ面した狐。神通力使い切りおって、ケモノに戻ってしもたんや」
「ま、住処にしとったおやしろから離してもろたり、半日バッグに閉じ込めて怒らせて、力を無駄遣いさせた甲斐、ありましたな」
……マジ、すごくね?
結局、千穂狐は淀橋さんが持って帰った。「2、3年大人しくしとれば、元に戻るやろ。それまでうちんとこで、たっぷり反省させたるわ」と言い残して、千穂狐を抱え、タクシーで帰っていった。
こうして、あれだけあたしの一家を苦しめた千穂は、驚くほどあっさりと、退治された。
妖狐、対峙、退治 終